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803号室

歴女への道

徳川四天王の一人本多忠勝の人生はドラマのようなエピソードがいっぱい!

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こんにちは★

戦国時代が好きなよよちち🐨です★

 

徳川家1筋でずーっと支え続けてきた本田忠勝。

この人は、生涯、戦で傷を負ったことがない人物だといわれています。

そして、自分の不注意で、指に傷を負ってしまったことで、引退を考えるようになったといわれています。(※諸説あり)

そんな神話を持つ本多忠勝についていろいろ調べてみました。

ということで、今回は、徳川四天王の一人本多忠勝の生涯 のお話★

 

本多忠勝の生涯を簡単にサクッと

■生まれ

松平(徳川)家を支え続けてきた重臣「本多忠高の長男」として、愛知県岡崎市の西蔵前城で生まれました。

父は、松平家臣・本多忠高。母は小夜(植村氏義の娘)。

父・本多忠高は忠勝出生のわずか1年後に今川氏との安城合戦で討ち死にしてしまいます。

そのため、叔父である欠城主(かけじょうしゅ)・本多忠真(ただざね)を頼り、洞城(ほらじょう・岡崎市洞町)に母と住みました。

ここから本多忠勝の武将人生が始まったのです!

■初陣

13歳の時、桶狭間の戦い(今川家VS織田家)における「大高城兵糧入れ」でいよいよ初陣です。

「大高城兵糧入れ」とは、今川方に属していた徳川家康が、今川方の拠点・大高城に兵糧を無事に運び込む任務です。

大高城は敵の織田陣営に深く入り組んだ場所なので、今川方にとって最前線、兵糧入れは極めて危険な任務!

この時忠勝は、敵、織田方の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになりますが、叔父本多忠真に救われました

 

■桶狭間の戦いのあと

家康と三河に戻ろうとした時に川が雨で増水し、足止めされていました。

織田の追手がくるかもしれない中、一頭の鹿が現れ、家康と忠勝を浅瀬まで導いてくれたおかげで、三河に戻ることができました。

一説では、この時の鹿をモチーフに鎧を作らせたとも言われています!?

ロマンチストなところがあるんですねーー見かけによらず!

 

■幼少期から「猛将」の片鱗を見せる

「登屋ヶ根城攻め」の時、叔父の忠真は、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようと奮迅、敵兵を倒して「この敵兵の首をとれ」と忠勝に言います。

しかし、忠勝は「他人の力を借りてまで戦功を立てたくはない」と断り、自ら敵陣に駆け込んで敵兵の首をあげるのです。

14歳で初首!!

その様子を見て、周囲の武将たちは「只者ではない」と感じたそうです。

忠真は感涙し「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」と徳川家康に言上。

幼少から勇猛果敢すぎます!!

単なる一兵卒では終わらない雰囲気が漂ってますーー!

 

■旗本先手役に抜擢

本多一族が一揆衆に味方する中で、忠勝は徳川方として活躍を見せ、その働きは家康の目にとまったとも伝わりました。

こうした今までの働きが認められ、三河の軍制改革で「旗本先手役」に抜擢。

弱冠19歳の忠勝は名実ともに徳川家の一将として数えられるようになったのです。

若くして大出世することに!

 

■一言坂(ひとことざか)の戦い

遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄

その偵察隊として先方する忠勝25歳。

武田軍に見つかってしまいます。

「しんがり(最後尾)」を務めた忠勝は火を放ち、武田軍の追撃を遅らせ、家康本隊を無事に逃がすことに成功。

忠勝は、待ち受ける武田家臣小杉左近隊に敵中突破を図ります。

小杉左近はこれを迎え撃たず、道を空けるように指示して本多隊を見逃します。

このとき、忠勝は左近に名を聞き感謝の言葉を述べたと言われています。

かっこよすぎです!男らしい!!

この時のすさまじい戦いぶりをして、徳川家康は「本多忠勝が八幡神に見えた」と絶賛。

敵である武田軍の武将・小杉左近は「家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多忠勝」と武功を称える狂歌にて褒め称えました。

この戦がきっかけとなって起こった後の「三方ヶ原の戦い(徳川家VS武田家)」では、育ての親でもある本多忠真(39歳)は、我が子として育てた忠勝の活躍ぶりを見て、

「自分の役目は終わった。ここが死に場所」と、しんがり(最後尾の部隊)を申し出たのです。

そして、忠真は道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、この地で討ち死にしたのです。

叔父・忠真の勇ましさ、忠勝もしっかり受け継ぎましたぞ!

🐨かんどー涙!!かっこいいー!!

 

■「小牧・長久手の戦い」天下分け目の一戦

忠勝37歳。

秘密に部隊を作り岡崎を狙う秀吉。作戦を嗅ぎ付け、「長久手」で襲撃する家康。

「長久手の戦い」は、徳川四天王・井伊直政隊「井伊の赤備え」のデビューでもあります。

※井伊直政について詳しいお話もあるよ↓✨

赤備え継承者「井伊の赤鬼」徳川四天王で体中が傷だらけ井伊直政の人生が面白い★

 

忠勝は小牧山城で留守居役をしていました。

秀吉は、家康本隊を叩くために2万の軍勢を率いて「長久手」へ軍勢を差し向けます。

それを阻んだのが、手勢わずか500人の本多忠勝・決死隊

秀吉の大軍2万と、龍泉寺川を挟んで対峙する本多忠勝約500。

しかしここで忠勝は大胆な行動に出ます、悠然と馬に水を飲ませたのです。

即座に襲いかかればたとえ本多忠勝でも、、と思いがちだが、秀吉は忠勝の「剛胆」さに触れ、家臣に召し抱えたくなり、「まことに無双の勇士なり」、配下の者に「戦うな」と命じたのです。

かっこよすぎです!!忠勝内心ドキドキです。

 

■小田原攻め

家康が秀吉への恭順を表明してからも活躍を見せます。

忠勝は北条方の降伏勧告を担当し、この任務を首尾よくこなしたと伝わり、秀吉から「忠勝が知略もっとも良し」と称されたという逸話が残されています。

さらに、家康の親衛軍団長という立場にもあったため、平時は政事にも参与していました。

他国大名と家康の取次も担当しており、家臣内だけでなく他国からも徳川家を代表する家臣であると認知されていたのです。

小田原攻めの後の徳川家の関東入国に際しては、上総国(現在の千葉県)10万石を与えられます。

これは徳川家臣団中で井伊直政、結城秀康に次ぐ石高であり、群を抜いているのです。

上総において忠勝の存在は、里見氏や北条氏残党などに対する抑止力として機能しました

 

■関ケ原の戦い

忠勝53歳。

井伊直政とともに東軍の指揮を担当。

本多家の本隊2500人を率いるのは嫡男の本多忠政。

忠勝は軍監として、別働隊500人を率いて徳川本陣に参加しました。

徳川本陣の背後の山に毛利軍が登る様子を見て、味方が「山の上から襲ってくるのではないか」と不安に思っていたところ、本多忠勝は次のように言います。

「もうすぐ戦が始まる。山上に陣取っていたら、戦うために麓に降りてくるはずである。

今、山に登るということは、戦う気がないからだ」

軍監に選ばれるだけあって頭脳も観察眼も優れている――と周囲の味方は安心しました。

そして、わずか500人の手勢を率いた本多忠勝は、実に90余もの首級をあげる結果となりました!!

 

■江戸幕府後は領内の整備に尽力

関ケ原の戦いの翌年、徳川家康は、本多忠勝の所領を10万石から15万石にしようと打診しますが、忠勝はこれを断って、次男・忠朝を分家にして大多喜5万石を与えました。

自らは伊勢国桑名10万石の藩主に就任したのです。

桑名藩主となった忠勝は、戦でも見せた知略を政治に生かし領内の整備に尽力しました。

桑名城を修築、「慶長の町割り」と呼ばれる現在の「都市計画事業」を施行します

このおかげで東海道宿場・桑名の整備が進められ地元では「名君」と仰がれます。

 

■幕府中枢から退く

家康の忠臣として文武で活躍を見せてきた忠勝も慶長9年(1604年)ごろから病気がちになり、江戸幕府の中枢からは退くようになりました。

また、同じ本多家でも本多正信・正純父子ら文治派が台頭し、忠勝や榊原康政ら武断派の将が政治から遠ざけられました。

そのため、一連の政略は家康による武断派の冷遇であると見なされることもあるようです。(※諸説あり)

 

■傷を負ったら終わりだな

忠勝57歳。

眼病を患い、江戸幕府の中枢から遠ざかり、嫡男・忠政へ家督を譲って隠居。

小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、眼病故か、老齢故か、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったのです。

本多忠勝も、傷を負ったら終わりだな」と呟いた後、しばらくして息を引き取った。

🐨なんか忠勝らしいよね。。。

慶長15年(1610年)10月18日、桑名城で亡くなりました。

 

本多忠勝にまつわる名言・エピソード

■鹿がお気に入り★

忠勝は、鹿角脇立兜(かづの わきだて かぶと)という兜を使用していました。

(これがかわいいんですよね💜)

和紙を貼り合わせ、黒漆で塗り固めた脇立は、鹿の大きな角を使用しています。

桶狭間の戦いの帰り道に川で出合った鹿のエピソードが由来しているという説があります。

 

■周囲からの評価

・織田信長の言葉

武田征伐後、忠勝の並はずれた武勇を「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。

 

・豊臣秀吉の言葉

「日本第一、古今独歩の勇士」、

「東に本多忠勝という天下無双の大将がいる」、

「西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」

と勇将として引き合いに出した。

🐨立花宗茂という男も超絶かっこいいですからーーー↓✨

男の中の男!立花宗茂の生き方がかっこよすぎる!美しくきれいな生涯をサクッと解説★

■家康との絆は深かった

秀吉は、本多忠勝を家臣にしようと思い、数々の豪勢なものを贈り、調略を試みました

しかし、忠勝は、、「秀吉の恩は恩。譜代の恩はさらに忘却し難し」と断ったと言われています。

秀吉はふられちゃうんですねーーー。

 

織田信長も「花実兼備の勇士」とたたえ、忠勝を欲したことがあるそうです。

家康は、このとき「余人に代え難い」と断ったそうです。

唯一無二の存在だったんですね。

 

 

おわりに

本多忠勝は、

・叔父、忠真の教えが良かった。

・幼年期から勇ましかった 腕力・知力・心が備わっていた。

・無骨な反面、ロマンティストで繊細。

・敵武将からも人気者だった。

・天下無双の武人であっても老いと病には勝てなかった。

そんな感じかなー。

 

戦国時代にはいろいろなタイプの人がいて面白いです。

同じ「徳川四天王」の井伊直政は、忠勝とは真逆で、体中傷だらけだったそうです。

 

🐨ほかにもいっぱい面白い武将たちがいるので、ゆるゆると読んでみてください↓🌟

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