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803号室

歴女への道

「徳川四天王」酒井忠次の生涯を簡単に★家康との怖ーいエピソードや笑っちゃうエピソード

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こんにちは★

ひきこもって歴史に浸っているよよちち🐨です🌟

お勉強お勉強♪

こうしてブログにまとめながら書き起こすと頭の整理ができたりして、ホント良い勉強になるのです✨

さて、よく「徳川四天王」って聞きますよね。

4人を有名かなーと思う順番に挙げますと

本多忠勝

井伊直政

⭐榊原康政(この人もちょっと影薄いかな)

⭐酒井忠次(今回お話する人)

徳川家に仕えていた人物だと有名なのは、服部半蔵とか石川数正の方が有名なのかな。

(勝手なよよちち🐨の感覚だけど)

 

でもこの酒井忠次は名だたる戦のほとんどに参加しているのであります。

家康の側近として徳川家に仕えた徳川四天王「酒井忠次」の生涯と家康とのこわーいエピソードなど のお話★

 

 

酒井忠次の生涯をサクッと

■1527年 忠次誕生

愛知県岡崎市で次男として誕生しました。

父・酒井忠親は、愛知県を支配していた松平家の松平広忠(徳川家康の父)に仕えていました。

ちなみに松平家の先祖は公家に仕えていた名家です。

酒井氏は、松平氏の本家から分かれた一族なので、松平氏と遠い親戚となります。

家康が小さいころから家臣として働いていました。

四天王の中でも最年長で、家康よりもだいーーぶ年上になりますね。

 

■1549年 22歳 竹千代の移送に同行した

松平家から人質として、竹千代(のちの家康)が今川家の駿府に送られることになります。

この人質交換のときに忠次が同行しました。

(松平家は今川家に仕えていました)

 

■福谷城・城主になる

忠次が28歳の時、織田信長は、父・信秀の代の時に、今川軍に侵略された領地を奪還するための戦をしていました。

やがて今川軍の重要拠点、福谷城(うきがいじょう)がターゲットになりました。

今川義元は福谷城主を守るため、また、城主の裏切りを阻止するため、忠次を派遣しました。

翌年、案の定織田軍が攻めてきました。

しかし、忠次は織田軍の武将・柴田勝家を撃退し見事に防衛戦に勝利しました。

 

■1560年桶狭間の戦い

とっても有名な戦い「桶狭間の戦い」です。(今川家VS織田家)

忠次隊は先鋒隊を任され、織田軍の武将・佐久間盛重の砦を攻め落としました。

しかしながら、今川軍の本体が織田軍の奇襲攻撃を受け、主君今川義元が討死し、敗戦してしまいます。

今川軍で戦っていた徳川家康ですが、敗戦を機に見切りを付け、松平家が防衛している岡崎城へ逃げ込みます。

そして、家臣達の間で織田軍と和睦しようという意見が出ますが、忠次の叔父・酒井忠尚が大反対します。

「松平家と織田家は三代に渡り対立してきたから、何をいまさら」と怒り心頭。

しかし忠次は、家康にこう言います。

「今の今川軍と織田軍を動物に例えるなら、猫と虎だ。今のうちに織田と手を組みましょう」と説得します。

その結果、家康は和睦を選び、今川と決別して織田軍と手を組むことになりました。

 

■1563年 三河一向一揆を鎮圧

忠次が36歳の頃。

農民たちは、家康に収める「年貢が高い」と不満が爆発して一揆(反乱)が起こってしまいます。

長期化すると財政圧迫。

家康は忠次に鎮圧を命じます。

忠次は絶対的忠誠心で家康に味方しますが、忠尚(叔父)は農民に味方することになり、酒井家が割れてしまいました。

混乱は無事鎮圧しますが、忠尚は駿河に逃亡することになったのです。

 

■1564年 重臣に昇格

この頃家康は、愛知県に残っていた今川軍を一掃していました。

忠次は今川軍の重要拠点、吉田城を攻め落とすことを命じられます。

忠次は戦を起こさず城を奪う(無血開城という)方法を考え、様々な計略を巡らせ、見事に成功しました。

家康は忠次の活躍を絶賛し書状を送りました。

その内容は

「愛知県東部の支配を君に任せるから宜しく。領地は吉田城のある豊橋市北部一帯ね。それから、君、今日からうちの軍の重臣ね★」と、忠次の地位を保障した書状だったのです!

忠次大出世―――🐨

 

■1566年 39歳 旗本に昇格

やがて徳川軍の家臣組織が整備され、忠次は本陣直属の部隊として、家康の護衛や、戦では本隊に所属する部隊、「旗本一手役」として城下に暮らすことになりました。

 

■主要な合戦に参戦

1570年 43歳 姉川の戦い 徳川軍VS浅井&朝倉連合 朝倉義景陣を撃破。

1571年 44歳 自分の城・吉田城の防衛戦 徳川軍VS武田軍(山形昌影&武田勝頼)武田軍を撃退。

1572年 45歳 三方ヶ原の戦い 徳川軍VS武田軍 徳川軍大敗。

徳川軍が敗戦し家康が浜松城に撤退すると、灯りを付け、開城しました。

そして忠次はやぐらに上がり、太鼓を鳴らし帰還兵を迎え入れたのです。

追撃隊の敵将・山県昌影はこの様子を見て

大きな警戒心を持ち深追いしませんでした

(山県昌影はものすごーく怖い武将で、家康はこの戦で昌影の追撃が怖くておもらししちゃうんですよ。

そんな昌影に警戒心を持たせて深追いをやめさせた忠次はすごい働きだったと思います🐨。)

1574年 47歳 高天神城の戦い(1回目)。

1575年 48歳 長篠の戦い 徳川軍VS武田軍 忠次は別動隊で武田軍の背後を急襲。

 

■家康の逃走・伊賀越えに同行

1582年 55歳 家康は織田信長に招待され、忠次をはじめ、複数の家臣を引き連れて大阪を見学していました。

この時あの「本能寺の変」が起こるんですねー!

織田信長死亡の知らせを聞き、家康達は慌てて逃走!

この時忠次も同行していて、逃走中、盗賊やなどから家康を守りました。

(この伊賀越えで有名になったのが服部半蔵ですね🐨)

 

■京都に隠居

1586年 59歳のころ。 豊臣秀吉が天下統一

徳川家康が秀吉の家臣となりました。

そして、忠次は滋賀県に1000万石、京都に住宅を与えられます。

その後、家督を長男・家次に譲り、京都に隠居しました。

晩年は目の病気にかかって失明寸前だったそうです。

1596年 69歳 京都で死亡。

残念ながら徳川家康の天下統一を見ることなく人生を終えてしましました。。。

忠次は、一生を徳川家にささげたのでした。

 

笑っちゃうエピソード

■嫌味な手紙に嫌味返し!

三方ヶ原の戦いで徳川軍は武田軍に大大大敗退

その後のことです。

新年を迎える頃、正月飾りと門松と共に、武田家から手紙が届きました。

そこに書かれていたのが

「松枯れて 竹類いなき 明日かな」

これがどういうい意味かというと、

松(=徳川家)枯れて 竹(=武田家)は比類なき繁栄の未来が待っている、超絶皮肉った内容だったのであります!!🐨笑!!

これに徳川家康や家臣達は激怒!!

ここで忠次はこの手紙を書き替えます!!

「松枯れず 武田首無き 明日かな」

松(=徳川家)は枯れず 武田信玄の首は明日にも無くなる。

🐨笑!!なんかこんな子供の喧嘩みたいなことしてたんだねーーー!あはは

家康がこれを読み上げると家臣達は大盛り上がり🎉

忠次は、送られてきた門松を切り落とし、この手紙を一緒に送り返したのでした!!

こわーいエピソード

■晩年は家康に恨まれていた・・・??

過去にこんな事件がありました。

家康の息子・信康と、信長の娘・徳姫は夫婦でした。

この二人は、夫・信康の悪行により不仲になっていました。

(🐨悪行とは嫁にDVしたり部下にパワハラしてたりしてたらしい)

信長の娘徳姫は、夫の悪行を信長に報告すると、怒った信長は忠次を呼び出します。

信康(家康の息子)が呼び出されたことを知った忠次は信康を弁明するための使者として信長の元へ向かいました。

信長が悪行についていろいろ事実確認をしたところ、何故か忠次は、一つもかばうことなく、全て事実だと認めたのです!

🐨。。。??何故味方してあげなかったのかしら。。。

悪行が事実だと分かった信長は、父親である家康に、「信康の切腹を命ずる!」と言います。

この時も忠次は何も言いませんでした。

結果、家康は断腸の思いで信康に切腹を命じ、信康は切腹します。

 

このことから時が経ちました。。。11年後の事。

1590年に豊臣秀吉が天下統一を果たして、徳川家は関東に引っ越すように命じられました。

この時、忠次はもう息子である家次に家督を譲っていたので、酒井家のボスは息子の家次。

家康は、この関東引っ越しで、各家臣たちに改に領地を与えます。

徳川四天王の領地の分配がこんな感じです↓

井伊直政→12万石

本多忠勝→10万石

榊原康政→10万石

酒井家次(忠次の息子)→3.7万。。。明らかに少ないですよね。

これを受けて忠次は、家康に言います。

「この配分はどう考えてもおかしいでしょ!息子にもちゃんと領地を与えてくださいよ!!」

家康は言います。。。。

「おまえも子がかわいいか・・・?」と。。。。

これは、家康の子供の切腹事件の時に忠次が何もしてくれなかった事を根に持っていたのでしょう。。。

「・・・うぅ・・・」

忠次は何も言えなかったそうです。

🐨ひょえーーーー。なんか家康が怒った顔が思い浮かんだ。。。こわっ。。。

 

家康の息子の切腹の時に介錯を命じられた服部半蔵は号泣して介錯できなかったそうです。

→この時の事はこちらに書いてます→★服部半蔵エピソード

 

おわりに

酒井忠次は徳川四天王の一人、年長武将

家康が幼い頃から仕え、数々の戦や交渉役、盛り上げ役として家康へ強い忠誠心を持ち、尽力していました。

場の雰囲気を読むことができ、機転が利き、相手の心理を巧みに探ることで、交渉上手。

戦闘能力も高く、また部隊の指揮者としての能力に長けていて、戦では数々の先鋒隊を任されました。

(遠江・高天神城奪還の時、武将達が討ち取った首の数ランキング→1位 酒井忠次、2位 榊原康政、3位 石川教正、4位 本多忠勝、5位鳥居元忠。

🐨忠次強い!!本多忠勝より上位ってすげーー!)

家老という上位の家臣でありながら、戦に負けて帰還する兵隊を、太鼓を叩いて出迎えたり、嫌味な手紙を嫌味で返したり、宴会では「海老すくい」という踊りを披露してみんなを笑わせたりして、モチベーションアップを図るムードメーカーでもありました。

戦闘能力、文章力、交渉力、人心掌握術、リーダーシップ✨さすが徳川四天王になった武将であります!

🐨なんでもできちゃう武将だったのですね❕

 

とてもミステリーなのは、信康切腹事件です。

弁明するための使者だった忠次が、なぜ一切かばわなかったのか・・・謎🐨??

常に家康の味方だったはずなのにね。。。不思議だ。。。??

 

🏯ほかにもいろいろな戦国武将を書いています↓⚔

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