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803号室

歴女への道

鬼と呼ばれた服部半蔵の人生が感動した!徳川家とのつながりやお墓など

更新日:

こんにちは★

忍者にはまっている🐨よよちちです!

 

今回は、よよちちでもなんとなく知っていた「服部半蔵」についていろいろ調べてみました。

なんか、思っていたのと全然違ってびっくり( ゚Д゚)しました!!

 

ということで、今回は、服部半蔵の人生を知って感動した お話★

服部半蔵の生涯を簡単にサクッと

■服部半蔵は何人もいた?!

服部半蔵、この名前は、松平家・徳川家のもとで活躍した「服部家の歴代当主を指す通称」だったのです。

いわゆる世襲制の役職ということで、服部半蔵という1人の人物がいたわけではなかったのです!

 

■服部氏のルーツって?

祖先は伊賀(三重県伊賀市)出身で伊賀忍者の頭目だったというのが定説のようです。

聖徳太子が「志能備(しのび)」=朝廷の動きを探るスパイとして使っていたのが、大伴細人(おおとものほそひと)、そして服部氏族(忍者)であったといわれているのです。

 

■服部家はやはり歴代忍者一族なのか??

いえいえ、歴代服部半蔵の中で忍者だったのは「初代」だけ!

2代目以降は忍者ではなかったのです!!

服部半蔵を名乗った人で一番有名なのが、服部正成(はっとりまさなり/はっとりまさしげ)、初代服部半蔵・服部保長(忍者)(父)の四・五・六男のどれかだったのです。(諸説あり)

忍者なだけに情報が少ないしあやふやになってしまう。。。

 

■服部家はだれかに仕えてたの?

正成の父・服部保長は生活苦により上洛し、室町幕府12代将軍足利義晴に仕えます。

同じころ、将軍に会うために上洛していた松平清康(徳川家康の父)に保長が気に入られたのをきっかけに、松平家(徳川家)に仕えることになったのです。

その後、正成は服部家の家督を継ぎ、その後徳川家康に仕え服部半蔵となるのです。

では、「服部正成」は何をしていた人なのでしょう。

その答えは「武将」だったのです。

ちょっとややこしいですね。。。

武将だった服部正成は、徳川家康に、忍者として雇われて服部半蔵と呼ばれるようになった、ということですね。

 

■生まれと初陣

服部正成は、1542年、初代服部半蔵の服部保長の四・五・六男のどれか(色々説がある)として、三河国伊賀(愛知県岡崎市伊賀町)に誕生します。

正成が6歳の時に、大樹寺に預けられ、お坊さんになるため修行に励みます。

この頃から筋骨隆々で力強い子供だったそうです。

しかし、正成9歳、出家が嫌で失踪しました。

親元には戻らず、兄たちの援助で暮らし、その後約7年間消息不明になるのです。

父親は生活苦だったので、親を頼ることをしなかったんですね。

正成の初陣は、16歳の時、三河宇土城(上ノ郷城)に夜に攻撃を仕掛けて活躍しました!

そして、徳川家康から褒美として葵の紋章(徳川家の家紋)入りの「杯」と「槍」をもらったのです!

 

■そして徳川十六神将になる!

いくつか功績を紹介すると。。。

・三河一向一揆で、一向宗で、徳川家康に忠誠を誓い戦いました。

・今川氏との戦い「掛川城の攻略」では渡邉守綱、内藤正成、本多重次、榊原忠政と共に戦い功績を積みます。

・浅井&朝倉VS織田・家康連合の「姉川の戦い」では一番槍の功名をあげます。

半蔵が大活躍した戦といえば、織田&徳川軍の連合VS武田軍の戦い「三方ヶ原の戦い」!!

この戦でも一番槍の功名をあげます!が、しかし顔と膝を負傷し敗走します。

徳川家康も討死寸前まで追い詰められ大敗し逃走。服部半蔵(正成)は、家康を追撃する武田軍を撃退!

(このとき家康は馬上でおもらし!しまったのでしたー。武田家はそのくらい家康を精神的にもおいつめていたのですね。)

浜松城へ帰還しますが、狼狽する味方の士気を挙げるため一人で城外に出て、敵と一騎打ちし勝利したのです。

なんかかっこいいエピソードだねー✨🐨

戦況が悪くても服部半蔵(正成)は功績をあげたので、徳川家康から褒美として、「平安城長吉の槍を含む二穂」をもらいました。

さらに伊賀衆150人を預けられたのです。

命を救ってもらった家康はとっても感激しました。

家康からの信頼も得て、正成31歳の時に江戸幕府の成立に尽力した徳川十六人の武将「徳川十六神将」の一人に数えられ、槍の名手として「鬼半蔵」の異名で世に知られていくことになったのです🌟

 

■結婚と子供

33歳で結婚しました。

徳川氏の家臣、長坂信政の娘と結婚しています。

34歳の時に長男正就が誕生します。

その4年後に次男正重が誕生します。

正成38歳で三男正廣が誕生しますが出家させたそうです。

なぜ出家させたのでしょう。

 

■主君の嫡男を介錯?

正成37歳。

(三男誕生1年前のことです)

織田信長と家康が同盟関係にあったころ、家康の嫡男・徳川信康は織田信長から、その優れた武勇に将来を嘱望されていました。

そして信長の娘と結婚します。

しかし織田信長は、信康の優秀さを恐れ、さらに信康に対して猜疑心を持ちます。

また、信康の乱心の噂や、武田勝頼との内通があると疑いを持つのです。

そして、信長はなんと家康に信康の切腹を要求するのです。

🐨信長ってマジでこわい・・・💦

家康はもう大ピンチ。。。どうすることもできない。。。

家康は主君の命令に背くことなんてできず、苦渋の決断をすることになってしまいました。。。

自分の子供、信康に切腹を命じるのです。

無情にもその時の介錯を服部半蔵(正成)に任せたのです。

服部半蔵(正成)は、こんな無常な役目、、果たせるわけないだろーー!!と思ったに違いないと思います。。。

「鬼半蔵」の異名をとっていた正成も涙したそうです。

いや号泣かもしれないです。。。

結局介錯できず、検死役の天方道綱が代わって介錯をしました。

とても悲しくて、苦しい経験をしました。。。

正成が三男を出家させた理由に、この事が深く関わっていてもおかしくないですよね。

正成は、同じ思いをさせたくない、と思ったのか、三男をこういう道に進ませないように守ったのか、懺悔なのか。。。

 

■内紛!そして約2年消息不明に・・

正成38歳。

武田勝頼との戦い。

連合である織田軍の援軍の大将の大垣家の家来(使用人)と徳川家の家臣の家来(使用人)が些細な事がきっかけで衝突を起こします。

🐨なにやってんだよー💦

服部正成は徳川家の家臣として加勢を頼まれますが攻められてしましました。

結果的には、双方に複数の死者が出てしまいます。

徳川家康は、主君信長への配慮として、正成の首を差し出すことにします。

しかし実際は、家康が、服部半蔵(正成)に「逃げなさい」と説得し、浪人として妻子とともに逃がしたのです。

大垣家には別人の首を仕立てて差し出したそう。

そして約2年消息が不明となったのです。

 

■家康の伊賀越えに尽力

正成40歳。

徳川家康は信長から招待され、畿内各地を見物していた中「本能寺の変」が起こります。

最短距離で伊勢から三河に帰還することにしたのです。

そこで、「栗」という場所にいた正成が呼び出されます。

この「栗」というのは、伊賀の国をあらわす隠語だということなのです。

その由来は伊賀の国から京都、奈良への道のりが、どちらも9里(約36㎞)だったことや、「いがぐり」から「伊賀」を連想させることで、「栗」なのだとか。

服部家は伊賀との縁が深いですね。

この時のお供は、服部正成・本多忠勝・穴山梅雪ら約30人程度でした。

正成は、京都の豪商茶屋四郎次郎「清延」とともに、伊賀・甲賀の土豪と交渉し、彼らを警護に付けることに成功するのです。

そして、伊賀忍者しか知らないルートで安全に帰国できたのでした。

と、何もなかったようにも言われていますが、正成は落ち武者狩りに来た雑兵らに対し応戦します。

正成は堀へ転落してしまい、槍で脚を十数か所刺され悶絶したのです。

家康の家臣は正成が討死したと思い、その旨を家康に伝え、遺体を回収しにいきました。

ところが!正成は生きていたのです!

そして介抱しながら帰ったのでした。

一方、一緒に逃げようという家康の誘いを断った穴山梅雪(もと武田家家臣)は別コースで逃げましたが、落ち武者狩りにあい殺害されてしまったのです。

 

このように、徳川十六神将として数々の功績を上げ江戸幕府誕生に貢献したことや、忍者たちを率いていたこと、忍者の血筋ということが、「服部半蔵」という名を世に押し上げたのでしょう!

 

■伊賀同心の頭になる

小田原の陣の功で遠江に8000石を受領しました。

家康の関東入国後、与力30騎、伊賀同心200を付属されたそうです。

父の保長が伊賀出身で忍者という縁で、忍者を統率する立場になったのです。

その後正成50歳の時、秀吉の朝鮮出兵で肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍します。

この戦が最後の出陣となりました。

 

■鬼半蔵死す

正成55歳。鬼でも病いに勝てず死す。

新宿区四谷にある「西念寺」に埋葬されました。

 

現在にも残っている「服部半蔵」

■服部半蔵が警備していた「半蔵門」

江戸にきた服部正成は伊賀衆を率いて「江戸城西端の門」の警護を任されます。

これが「半蔵門」。

その門外には「与力30騎、伊賀同心200」が組屋敷を構えていました。

現在の四谷へ通じる「甲州街道」沿いの一帯には、旗本屋敷で固められました。

大久保百人衆、八王子千人衆などが配置されていましたので、将軍に非常事態が起きた際に江戸脱出の要路だったともいわれています。

半蔵門から始まる甲州街道は甲府へ、日光街道から日光東照宮へと直通しているのもわかりますね。

 

■服部半蔵のお墓

1597年、服部半蔵享年55歳。

そのお墓は、JR中央線、東京メトロ丸の内線・南北線の「四谷」駅徒歩8分「西念寺」にあります。

この「西念寺」は、服部半蔵(服部正成)が、松平信康(徳川家康公嫡男)の供養のために開きました。

切腹を命じられた信康を追悼し供養したかったのでしょう。

正成は世の中の無常を感じ、信康の冥福を祈るため仏門に入ったのです。

その後名を「西念」と号したのです。

半蔵が家康からもらった槍は今でも「西念寺」に寺宝として保管されていて、新宿区指定文化財に登録されているのです。

尚、「西念寺」では毎年11月14日には「半蔵忌」が行なわれます。

 

服部半蔵は松尾芭蕉??の都市伝説

松尾芭蕉は。。。

・出身は三重県伊賀市

・近江から江戸に移り住んでいる(住むための審査が厳しい時)

・一日48キロ、約9時間も歩いた(人生50年と言われる時代に、芭蕉46歳)

・関所をフリーパスしている

なるほど!

都市伝説として語られているのがわかりますね~、歴史ロマンを感じちゃいます!

でも脚を数十か所も槍で刺されてる・・・・なわけないか~。(笑)

 

おわりに

服部半蔵は

・祖先は聖徳太子に仕えていた

・父だけが忍者だった

・武将として徳川家康に一生仕えた

・家康を何度か救って感謝されている

・槍の鬼半蔵と呼ばれていた

・恩情に熱い

・皇居の半蔵門、地名の半蔵門は服部半蔵の名が由来

・墓は新宿区四谷の「西念寺」にある。

という感じです✨

よよちち🐨は、服部半蔵って冷酷なイメージを持っていましたが、全然違ったなー。

なかなか、面白かったーーーー!!

歴史ってほんと「ロマン」あるなーーーー。

人間ドラマがたくさんあってほんと面白いです!!

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