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歴女への道

謎に包まれた山本勘助の生涯★武田信玄に救われた遅咲きの武将の人生がすごい!

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こんにちは★

歴史大好きよよちち🐨です★

 

寒い日は、🏠家で読書もいいですよね💜

最近は歴史の本ばかり選んで読んでしまいます📚

あんなに嫌いだった「日本史」にこんなにハマるなんて、分からないもんですねー(笑)

 

さて、今回は、よよちち🐨が1番好きな武田信玄の側近中の側近にまで上り詰めた「山本勘助」についていろいろ調べてみました。

すごく謎な人物で、諸説がありすぎるので、どれが本当なのかは、正直誰も分からないと思います。。。が、なるべく史実に近いのではないかな、という説を採用しています。

武田家に就職できた山本勘助は、とても興味深い人物です。

ということで、今回は、謎が多い山本勘助の武田家とのエピソードや人生 のお話★

分かりやすいように今風の言葉に変えて書いています🌟

 

山本勘助の生涯を簡単にサクッと

※名前は勘助・官助 諸説ありますが「勘助」で統一しています※

■生まれ

両親が静岡県富士宮市小泉に大名山本氏(子会社の社長)の家の近くに住んでいました。

父親は「山本氏」の部下「吉野貞幸」で、三男として生まれ名前は「源助(げんすけ)」でした。

今でも吉野家の屋敷には「山本勘助生誕の地という石碑」があって、その裏面には勘助にまつわる話が書いてあります。

ちなみにNHK大河ドラマ「風林火山」のあらすじは、この碑の裏面に刻まれている略歴にそっているそうですよ🌟

 

「風林火山」すっごい面白いです!

今まで見た大河ドラマの中で1番好きです。

何回も号泣しました—🐨💦

 

いろいろな説があって生まれた場所もハッキリしていません。

三男もしくは四男説もありますし。。。

しかし、どうやら富士宮市山本説にまつわる「古文書」や「古記録」が確認されていて、実態が判明してきているらしいのです。

もう少し待てば分かってくるのかもしれないです🐨

 

■名前が勘助(かんすけ)に変わる

勘助12歳。

幼少時代から兵法を勉強していて、剣術、槍術、馬術、他の色々な芸も優秀だったそうです。

勘助が養子に入ることになった経緯はわからないけれど、牛窪城の牧野氏の部下の「大林勘左衛門」の養子になりました。

その時に改名して「大林勘助貞行(おおばやしかんすけさだゆき)」となったのです。

 

■勘助バイト生活そして武者修行の旅

勘助20歳。

ある日、剣豪(刀を扱う技術が高い)で有名な「上泉秀綱(かみいずみひでつな)」が弟子の虎伯(こはく)を連れて、牛窪城の牧野氏を訪ねました。

そこで勘助と虎伯が剣による試合をさせます。

勝敗は、先に虎伯が一本を取り、次に勘助が一本を取りました。

周囲の人たちは「勘助負けやがって!」と誹謗したのです。

本番の戦いでは次はありませんから、「一本取られるとは死を意味する」的なことだったのでしょうね。

勘助は悔しくて、武者修行の旅に出ることにしたのでした🌟

ここからバイト生活が始まります。

旅の途中、高野山に登り旅の祈願をしました。

その時に摩利支天像を授けられ、これを御守りとして大事にしながら約30数年の間九州、中国、四国地方、関東などの諸国を旅しました。

尼子氏や毛利氏でバイト兵隊をして兵法やの修行に励んだとも言われています。

戦国時代を生き抜くために、陣形や戦略を学び、農民や足軽、忍者者から地形や、兵隊の動き、作戦などの情報収集をしたり、城取り、築城術や、陣取り(戦法)を習得したのです。

(🐨これがのちに武田氏を大きくする力となるのだ!!)

 

■養子縁組解消

勘助35歳。

武者修行の旅の途中、大林家(養子先)に帰りましたが、実の子供が誕生していたことを知ったので、養子の身であった勘助は親子の縁を切ることにしました。

そして、再び武者修行へ旅立ったのです。

大林家から縁切りを言われたのか、勘助から言ったのかはわかりませんが、幼少の頃に実の親から離され、育ての親と縁を切るとは、強く悲しんだとおもわれます。。。

勘助かわいそう。。。🐨

勘助的には失うものが無いので「こうなったら成り上がって見せる!」と考えたのではないのかな。

 

■就職活動・バイト・居候

勘助37歳。

駿河にある今川義元の会社に就職したいと思い、駿河に引っ越します。

まずは、ご飯が食べられて、寝るところも欲しい。

今川家の部下で庵原城の城主の庵原忠胤(いはらただたね)のところに面接に行きます。

そして忠胤の屋敷でバイトをしながら居候させてもらうことに成功しました。

その後、今川義元の部下で朝比奈信置(あさひなのぶおき)という人と出会います。

今川家に就職したい勘助は、朝比奈さんに紹介状を書いてもらって面接することになりました。

今川氏の募集要件は、実績、見た目、剣術、血筋を重視していました。

今川義元は勘助の「容姿」を嫌いました。

(今川家って感じ悪いよね!🐨武田信玄とは大違い!)

そして周りの家臣達は、「就職経験が無い」「部下もいない」「会社経営に関わった事が無い」「営業経験が無い」のに、経営も営業職も極めたので働きたいとはハッタリにも程がある、と懸念します。

さらに、勘助の剣術は、流行の新当流(しんとうりゅう)という剣術ではなくて、マイナーな京流という剣術でした。

その面接結果は・・・「誠に残念ではございますが、ご希望に添いかねる結果となりましたことをお伝えいたします」というお知らせだったのです。

勘助の容姿は、色黒で、片目しかなく、体には無数の傷、足が不自由で、指もそろっていなかったと伝わっています。

残念ながら、引っ越しまでしたのに就職が決まらず、バイトをしながら駿河で鬱々とした日々を過ごすことになったのでした。。。

 

この、勘助バイト時代に伊賀の侍兼農民だった藤林長門守保豊(子孫が伊賀・甲賀共通の忍術伝書を残している)は、伊賀流忍術を伝授したとされています。

そして、勘助が著したとされる「老談集」には忍術らしきものが記されていました。

勘助がいつも身に着けていた摩利支天は忍者の神様??という話もあります。

勘助は忍者??

以前は存在も不明とされた勘助だから、忍者だったのかも🐨

 

■武田軍に就職決定、そして中年の星になる

勘助51歳。あれから14年がたちました。

勘助は武田信玄の武田家に就職したいと思い、今川家の部下・庵原忠胤に紹介状を書いてもらって、武田信玄がいる甲斐の国へ向かいました。

そして武田信玄の部下で管理職の板垣信方と出会いました。

勘助が庵原忠胤からの紹介状を所有していて、武田軍に就職を希望していることを知りました。

板垣は、勘助の剣術や知力などの才能を見抜きます。

 

この頃武田信玄(23歳)は父の信虎を駿河へ追放しようと目論んでいて、管理職の板垣がその駿河との交渉役でした。

そして武田信玄の父信虎の追放劇を、勘助が手伝ったとも言われています。

板垣は、武田信玄へ部下として勘助を推薦します。

追放劇の活躍を評価され、信頼する管理職の板垣がいうなら大丈夫だろうということで、みごと就職が決まったのでした🌟

ここからが勘助の第2の人生スタートです!!

51歳勘助、ここまでの就職活動は厳しかった!

なんと!記念すべき勘助の初年棒は現在の約1,000万円だそうです。すげー(゚д゚)!

そして板垣は、入社式に向けて、勘助に泊をつけてあげようと考え、馬、弓、槍、着物、部下などをプレゼントしました。板垣優しいねー💜

いよいよ勘助は甲府で入社式です。

武田信玄は、勘助が名高い武士であるのは知っていましたが、その堂々とした姿を見て感激しました。

そして予定の年収より増えて年棒は約2,000万円となるのです!!

このVIP待遇の結果は、紹介状を書いてくれた支店長の庵原忠胤と、勘助を見極めた板垣のおかげですね。

その後武田軍は、次第に各地に支店(城)を増やしながら会社の規模(領地)を拡大していきます。

その背景には、勘助の活躍も目立っていたそうです。

今の世の中みたいに、誰でも自由に、どこへでも行ける時代ではなかったのに、勘助には約20年間各地を巡った実体験に基づく情報がありました。

それはとっても貴重なものでした。

今でいうところの歩くWeb検索ツール状態。

信玄は、勘助のスキルは今の武田家にはないと、その器量の大きさに気付くのです。

そうして勘助は、後に9つの敵の城を乗っ取るなど多大な功績を残すことになったのです。まさに中年の星🌟

さらに勘助は、武者修行の旅で各地の城を知っていたので、支店開発(築城)で新たらしいアイデアを考え出すほどの名人となっていきます。

築城の極意は「攻めるに難しく、守るに易い城」。

高遠城(長野県伊那市)、小諸城(小諸市)、海津城(長野市)の築城の時にその実力を発揮しました。

 

■参謀 兼 足軽大将になる!!

勘助55歳。

上田原の戦。武田軍7000、敵は北信濃の葛尾城の村上5000。

(この村上家って武田軍との相性が悪いんだよねー🐨)

連戦連勝の武田軍は村上軍の第一線を崩します。

しかし、熱くなりすぎた武田軍のメイン家臣の甘利と板垣軍は、敵陣深くまで攻め入ってしまいます。

そして敵陣に包囲され討死。。。

さらに救援部隊も攻撃されてしまい、多くの犠牲が出ました。

そこで勘助は「自分の陣を本陣に見せかけて、敵の矛先を自分に向けている間に、攻撃態勢を立て直してください、危機を脱し、武田軍を勝利させます」と信玄に提案します。

勘助は50騎を本陣にみせかけ作戦通りに動き、その思惑通りに敵の村上軍は勘助を追いかけます。

そして見事に作戦は成功しました。

この戦の結果は、こう着状態が続き損害も大きかったので武田軍は撤退しました。

勘助の案で味方の危機を救ったことが評価され、年収が8000万になりました。

そして参謀(最高指揮官の秘書)を兼ねた足軽大将(本店の営業部長)となったのです!!

 

■信玄と一緒に出家する

勘助61歳。

主君武田晴信が出家して武田信玄を名乗ります。

これにならって勘助も出家し「道鬼斎」と名乗りました。

 

■勘助の最期

勘助69歳。(当時だともうお爺ちゃんですね)

川中島の戦い4回目。

(この4回目が1番派手な戦いとなりました🐨)

武田軍20000VS上杉軍13000。

勘助が得意とするキツツキ戦法にて出撃開始します。

軍を二つに分けて挟み撃ちにする戦法でした。

しかし上杉謙信は「あさはかだな」と言わんばかり、この策を察し武田軍の手薄になった本陣を襲撃するのです!!

武田軍は裏をかかれてしまい形勢不利、窮地に陥ります。

勘助は作戦を見破られ味方を危機に追い込んでしまったことに責任を感じて、突入を決意するのです。。。

今までの勘助の作戦はいつも当たっていたのに。。。

味方武将に突入を止められますが、

「過ぎ往くこと、流れるが如し。愚挙に非ず。(死んでいくことは自然の流れ、愚かな行動ではない)」

と言い残し、大太刀を振るって敵陣に向かっていきました。

死を決意した勘助はわずかな部下とバタバタと13騎を倒しますが、部下たちは次々に討ち死にしてしまいます。

ついに上杉氏の部下達に囲まれてしまい、四方八方から槍を撃ち込まれてしまいます。

落馬したところを上杉家臣坂木磯八に首を取られてしまったのです。

この時に受けた傷の数はなんと68箇所だったそうです。😢

壮絶ですね。。。戦国時代ってこわー🐨💦

戦の結果は両軍ともに損害が大きく苦戦し、引き分けにおわりました。

(川中島の合戦は最後まで決着がつかなかった)

 

勘助はこの戦で勘助は69歳の生涯を終えました。。。

 

🐨川中島の合戦に関連するお話↓⚔

武田家一筋!馬場信春の男気あるエピソードとかっこよすぎる最期が泣ける。。。

上杉謙信の逸話と謎★川中島の戦いや女性だと言われる理由などわかりやすく解説★

 

勘助は架空の存在と言われていた

昭和44年頃までは証拠となる資料が無くて、その存在が疑われていました。

しかし、古文書(市川文書)が世に出たことで架空説は覆りました。

 

ヤマカンという言葉の語源?

あてずっぽうなことを「ヤマカン」と言いますが、キツツキ戦法が失敗したことで、ヤマモトカンスケ=ヤマカン

これはどうやら後の世の俗説らしい。

 

おわりに

山本勘助は、架空の人物と言われていましたが、存在を示す資料が見つかり実在していた人物と判明しました。

親を失い、戦国を生き抜いて行くために戦術を探求した勘助でしたが、就職活動では、第一印象の悪さや、実績の裏付けが無くて苦戦しました。

長いバイト兵隊や武者修行の旅で得たノウハウは、重宝されるはずのスキルだったのに、見た目重視で、偏見を持つ井の中の蛙的な社長や管理職達には、わからなかったのかもしれません。

しかし、その実力を見抜いてくれる「人」に出会えた事で、実力をいかんなく発揮することができました。

さすがは武田信玄!!

でっかい人間です!!

 

最後は作戦に失敗し死んでしまいましたが、その勘助の言葉の通り「戦は、わが人生の如し・・・。」

武士として人生をまっとうできたのではないでしょうか。

信玄に出会えてよかったねー🐨!

勘助を輝かせることができた信玄もかっこいいし、信玄のために命を懸けて忠誠を誓って最後までそばにいた勘助もかっこいいです!

2人ともすごくかっこいいです🐨!!

🐨ほかにもいろいろなお話あるので読んでみてください♪↓

【武田信玄】戦国武将の考え方に惚れる!名言とエピソード★歴女になる!

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