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803号室

歴女への道

歴女に大人気の伊達政宗ってどんな人で何をした人?実はよく知らないから勉強した★

更新日:

こんにちは★

歴史好きなよよちち🐨です。

 

歴女に大人気の伊達政宗✨

でも、実際、どんな人で何をしたか、よくわからなくないですか??

名前はすごく聞くし、有名ですが「何した人なの?」と聞かれるとよよちち🐨もうまく答えられないなーと思いました。

ということで、今回は 伊達政宗ってどんな人で、何をした人なのか? のお話🎶

伊達政宗の生涯をサクッと

■幼少期

生まれは奥州(東北地方)で、幼名は「梵天丸」。

代々伝わる伊達家のお坊ちゃんです。父輝宗が家督を継ぐと、伊達氏の全盛期に近いところまで徐々に勢力を盛り返していきます。政宗はそんなタイミングで生まれたので、もともと伊達家の勢力がある時に生まれました。

幼少期に右目を失いました。(ちなみに眼帯を付けていたという記録は残っていません)

幼少期はおとなしく、人見知りでしたが、だんだん目立ちたがり屋のハデ好きになっていきます。

 

■家督を継いで奥州統一

政宗には小次郎という弟がいました。伊達家周辺では兄政宗派と、弟小次郎派がいて、いざこざが起きました。でも父親輝宗は、兄の政宗に家督を継がせると決めて、けっこう強引に政宗に継がせます。

政宗18歳です。

弟小次郎派の人達は気に入らないし、父親も強引に政宗で押し通した結果、争いが起こります。

これがだんだん大きくなって、「人取橋の戦い」に発展します。

この一連の中で、父親は死んでしまいます。この父親の死は、諸説ありますが、

政宗が父親が、その場にいると分かっていて攻撃したので死んだのではないか、と父親殺し?ともいえるとんでもないことをしでかしました。

そんなこんなもありながらも政宗は奥州を統一することに成功します。

 

■秀吉との接触

奥州の大名となった政宗。

このころ、秀吉は天下統一まであと少しのところに来ていました。

自分に従っていないのは、北条氏政と、伊達政宗。

そんな時に、関東を治める北条のお城小田原城攻めをするために、秀吉は各地の大名に

「北条征伐するから、みんな来て手伝って」と言います。

政宗のもとにも届いたのですが、政宗は困っちゃいました。

伊達家は、北条氏と仲良し同盟を結んでいました。

秀吉の号令に背いたら、次は自分が攻められるし、北条家を裏切ることもできないし。。。

北条家の味方をして秀吉軍と戦っても勝ち目ないし。。。

悩みました。(この時北条氏政は、政宗の援軍を待っていました)

政宗が悩んでいる間に、北条征伐は動き始めました。

そして、北条家は降伏して、氏政は自害。

(政宗は北条家の援軍に行きませんでした)

そして、政宗は、秀吉のもとへ大遅刻して到着。秀吉はご立腹。

でも、政宗は白装束姿で登場し、なんとか難を逃れました。

 

■秀吉政権の元で働く政宗

こうして秀吉の傘下になった政宗ですが、大遅刻の件もあって、あんまり大事にしてもらえませんでした。

領地は没収されるし、大事な仕事を任されることもありませんでした。

ハデ好きな政宗は、上洛する時にハデに着飾って、同じくハデ好きな秀吉にアピールしますが、失敗におわります。

他にもいろいろな不運も重なり、政宗はだんだん力をそがれていく結果となりました。

そんな中、秀吉の死。

秀吉の政権は徳川家康が握るようになっていきました。

 

■家康と仲良し

秀吉は、諸大名が許可なく結婚することを禁止していましたが、家康はその約束をすんなり破って勢力を拡大します。

政宗の長女も徳川家に嫁ぎました。

 

■関ケ原の戦い

家康の力がどんどん大きくなって石田三成と対立するようになって起こったのが「関ケ原の戦い」です。

徳川家康VS石田三成

政宗はもちろん家康側。家康側についた政宗ですが、東北の領地は増えることはありませんでした。

 

■徳川政権の元で働く政宗

政宗は一生懸命働きました。

今までの野心を捨てて、徳川家のために東北地方を統治しました。

 

■大阪の陣

徳川幕府に反発する人がいます。それは大阪の豊臣秀吉の息子秀忠です。

徳川家にとって豊臣家は厄介者なので、出陣することに。

これが大阪の陣です。徳川家VS豊臣家

政宗はもちろん徳川家側として戦いました。

2回にわたる戦となりましたが、勝ったのは徳川家。

豊臣家は滅亡して、徳川政権を邪魔する人はいなくなりました。

この大坂の陣で、伊達政宗は笑いものになる事件が起きます。

味方の兵を追い込んで殺しちゃったり、真田幸村にビビッて出陣しなかったり。。。(笑)

それで、幸村からは「関東勢は100万いても男は1人もいない」と言われちゃうんですねーーー

 

■政宗の最期

政宗はそのまま2代目将軍である徳川秀忠、3代目将軍である徳川家光に仕えました。

政宗は病に倒れます。胃がんだった。(※諸説あり)

食べ物を飲み込めなくなり、しゃべれなくなってしましました。

病に侵されてからは、お見舞いは断り、妻子にまで死顔を見せなかった、と言われています。

最期まで、政宗はかっこつけマンを貫きました。

享年70。

 

伊達政宗のエピソード

■独眼竜

子供のころに疱瘡(ほうそう)という病気で右目を失いました。

(山本勘助も同じ病気で片目を失っていますね)

「独眼竜」というのは江戸時代になってつけられた物なので、伊達政宗が実際に着けていたかは不明。

後付けです。

でもこのトレードマークがあることで、人気に拍車がかかったのだと思います。

ドラマや映画でも、この独眼竜をかっこよく演出していますので。

 

■秀吉に怒られる

北条氏がいる小田原城攻めをする時に秀吉は、大名達に号令をかけました。

「大名達全員集合―――!」の合図で、みんな集合しているのに、

政宗は来ない!!

秀吉はイライライライラ・・・・・!

みんなよりも半年遅れで秀吉のところに着きました。

その時の政宗の行動が有名です。

白装束の恰好で現れた」というものです。

これの意味は

「ごめんなさい。死ぬ覚悟です」というものです。

これを見た秀吉は「まぁ、今回は許してやるか」となったそうです。

こうしてピンチを逃れることに成功しました。

その後、チクチクと意地悪はされるんですがね。

 

■伊達者

政宗はおしゃれ大好きでハデ好きでした。

文禄の役(朝鮮へ出兵)の時に、政宗は自分の兵も派手に着飾らせて上洛しました。

京の人々も喜んだそうです。

このエピソードが由来して「伊達者」という言葉ができたと、言われています。

ちなみに、朝鮮出兵はほかの大名達は嫌々だったらしいですが、政宗だけはルンルンで向かったそうです。

政宗らしいエピソードです★

 

■料理大好きグルメな人

兵糧の研究がきっかけで料理にハマっていきました。

普通に台所に立って包丁片手に料理をしていたそう。

1日中こもって献立を考えたり、試作品を作ったりしていたそうです。

有名なのは、仙台名物の「ずんだ餅」と「伊達巻玉子」

3代将軍の徳川家光のおもてなしも自ら担当して料理をふるまっています。

 

伊達政宗は多趣味のチャラ男

子供のころはふさぎ込みがちのおとなしい性格だったのですが、大人になるにつれて、

目立ちたがり屋、ハデ好きのかっこつけマンの人生楽しまなきゃ損だしーー!というイケイケな性格になっていきます。

今でいうチャラ男というか。。。(もうこれも死語か??)

秀吉の前に白装束姿で登場するあたり、度胸も据わっていますよね。

愛煙家としても知られています。

華道、茶道なども好きで文化人を呼んで楽しんでいたそうです。

政宗は、一言でいうと、好奇心旺盛で、多趣味でチャラ男で、リーダーシップのあるチャラ男ですね(笑)

↑これ面白かった💓

おわりに

この戦乱の時代の中でも政宗らしく人生を楽しんだ感じがしますよね。

料理できて、好奇心旺盛で、お洒落で、イケメンですから、そりゃー人気が出るでしょう★

政宗の生き方も良いですよね☆

独特な生き方です。

 

伊達政宗はどんな人で何をした人なのか?

一生を東北地方に捧げた人。

最期までかっこつけマンで、人生を思いっきり楽しみながら生き抜いた人物 かな。

 

戦国時代~安土桃山時代に登場人物はいろいろな人がいて面白い💜

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