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本当の最強武将「島津義弘」の感動と衝撃のエピソード3選★

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こんにちは★

戦国武将の生き様にしびれているよよちち🐨です★

 

しびれる武将はたくさんいますが、この人「島津義弘」もしびれまくりの武将の一人です💜

前回の記事を読んでいただくと、より分かりやすいと思います↓🎶

島津義弘の生き様がかっこよすぎる!島津四兄弟や得意な戦法も解説★

ということで、今回は 本当の最強武将島津義弘の感動と衝撃のエピソード のお話★

 

島津義弘伝説(戦編)

■文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

豊臣秀吉は日本を平定したから、「次は海外だ!」という名目で朝鮮に出兵することにしました。

でも本当の目的は各地の大名たちの勢力を衰えさせる作戦だったのではないか、と思います。

この戦はとても過酷なものでした。

気候も違えば勝手も変わってくるわけで。。。

日本を自分の思い通りにしたい秀吉は、各地の大名の力が大きくなりすぎるのが怖かったんじゃないか。

それで、朝鮮出兵を言い出して、過酷な戦をさせることで、自分以外の勢力を小さくしてしまえ、という目的があったのではないか、と。

その筆頭にこの「島津家」があったのではないか、と思います。

秀吉の思惑どおり、朝鮮に行った兵はボロボロに。。。

でも、島津軍は強かった

この戦では、戦死者のほかに、凍死、餓死者がとても多かったのですが、島津軍からはほとんど出なかった。

それは、義弘が部下に優しく気遣いをしていたからでした。

しかし、残念なことに、息子島津久保を失ってしまいます。(病死、餓死など諸説あり)

もしかしたら、久保は、自分を犠牲にして部下たちを気遣っていたのかもしれません。

義弘の人間性をみんな尊敬していたので、そういう人材が育っていたのです。

島津軍は強い絆で結ばれていて、兵の士気が下がることはなく強く生き抜くことができました。

戦場でも義弘軍は敵将を打ち取ったり、ほかの家の軍隊と一緒に挟み撃ちして水軍を撤退させたりと、大活躍でした。

ただ、刀を持って戦うだけが「戦」ではなくて、兵を大事にして守っていかなければ強い軍にはなりません。

こういうところもまた、島津義弘軍が最強な理由だと思います。

 

■関ケ原の戦い「島津の退き口(ノキグチ)」

秀吉の死後、東軍(徳川家康)VS西軍(石田三成)が始まりました。

島津軍は西軍として戦いました。(本当は東軍が良かったんだけど※諸説あり)

結果は西軍の負け。。。。

戦は無事に家に帰るまでが戦です。

島津軍も撤退しなければなりません。

周りが敵だらけになり、ポツンと島津軍。。。

義弘は、「もうここまでか。。。」と、その場で自害しようとしました。

しかし甥の豊久が、「ダメです!義弘殿が生きている限り島津家は続きます!生きて帰ってください!」と言います。(豊久は、義弘のことを父親のように思い、尊敬し慕っていました)

この関ケ原の戦いの島津軍は義弘と一緒に戦いたいと、志願して集まった兵たちで作られた軍でした。

(兄の義久はこの戦に参加しない、という意向だった。しかし、今回の兵たちは、義弘が行くなら!力になりたい!とついてきた人達だったのです)

ですので、「絶対に義弘を生きて九州の家に帰すぞ!」という強い強い団結力が生まれました。

義弘は家臣からの信頼度も最強だったのです。

しかし、そこには、徳川四天王の本田忠勝もいるし、赤鬼と恐れられている井伊直政の無敵の赤備えの部隊がいる!

恐ろしい・・・。

でも、島津隊は、背中を向けて逃げ出すことはしませんでした。

なんと!東軍に真正面から突っ込んでいきました!!

家康も「逃げれるものなら逃げてみろー。」てな具合でした。

しかし、予想を反して島津軍はすごい退陣劇を繰り広げます!!

島津軍の撤退作戦は、「捨てがまり」というもの。

これは、1つのかたまりが全滅するまで戦い、それがまた全滅したら次のかたまりが戦う。

トカゲのしっぽのように、しっぽを捨てながら進んでいく戦法。

兵たちが命がけで盾となって前を守って進んでいくという、相当な信頼関係がないとできない作戦です。

とても壮絶な戦いでした。なんとか敵軍を離しますが、最後までしつこく追いかけ続けたのが、敵軍のあの赤鬼井伊直政。こわっ。

しかし、島津軍の鉄砲に撃たれて落馬します。

東軍(徳川軍)にも犠牲者がでて、壮絶な激戦を見た家康は「もう深追いするな」と撤退の指示を出します。

島津軍は、退陣するときは、300人いたけれど生き残ったのは80人ほどだったそうです。

そして、たまたま居合わせた立花宗茂と船に乗ることができて、九州に帰ることができました。

「島津の退き口」が成功した理由は、「義弘の日ごろの行い」じゃないかな、と思います。

家臣たちが、盾となって戦い、義弘のために死んでいくことになんの躊躇もなかったのですから。。。

自害を止めた甥の豊久も犠牲となり戦死しました。

 

おっかなーい井伊直政についてはこちら↓★

赤備え継承者「井伊の赤鬼」徳川四天王で体中が傷だらけ井伊直政の人生が面白い★

 

その後の義弘の政治業務もさすがでした。行政もできちゃうのね。

島津家は西軍として戦ったので、敗者の大名。

東軍のボス、家康に、お仕置きされるわけです。

西軍のボスの石田三成はお城も領地も没収され、さらし者にされて斬首。。。

さて、島津家はどうなってしまうのか。

でも、島津家はほとんどお咎めなし★

家康は、「島津家こわいし。あの島津の退き口ヤバかったし。」

「万が一戦となったら、大変そうだしめんどくさいし」

「家臣たちも許してやれって言ってるし」

「今回は見逃してやろうかな」という結論になりました。

そうさせたのが島津家のすごい所

義弘は激戦をした井伊直政(徳川四天王)にお話しに行って仲直り。井伊直政は家康に「島津家のこと許してやってくださいよ」と言ってもらいました。ほかにも、家康のマブダチなどにも接触して、お願いしました。

弟義弘が、交渉というか根回しをキチンとしておくことで、当主である兄の義久は、家康に対しても強気で交渉ができたのです。

それと、島津家は、そもそも関ケ原の戦いには兵をほとんど出していませんので(兄の義久は関ケ原の戦いに参加したくなかったから)、軍事力もしっかりと整っていました。

これも強気な交渉ができた要因の一つ。

こうした理由から、「絶対領地あげないよ」「戦えるものならかかってこんかい」くらいの勢いで、島津家は、九州の領地を守り抜くことができました。

さすがはぶれない島津家!!ほかの大名とは違いますね!

はーかっこいい。

 

■義弘の最期は家臣も殉死

島津義弘は、あの時代で85歳という長生きをしました。

義弘が死んだとき、「殉死禁止令」が出ていたにも関わらず、13人もの家臣が殉死した。

※殉死(じゅんし)とは、主君の死を追って、自害すること。

義弘の人間性が分かるエピソードですね。

最後の最期まで家臣からの信頼度も最強だったのです。

その後も、九州(薩摩)の島津家一族は代々受け継がれて、江戸も生き抜いて倒幕を成し遂げました。

家がずっと続くってすごいことですよね。

秀吉の内部崩壊を狙った策略にも耐え、関ケ原の戦いでは、家康に強気な姿勢で立ち向かい、領地を取られることもなく、九州を治めていきました。

 

おわりに

島津義弘という人間は、もう非の打ちどころがないような人物です。

本当の意味で最強な武将です。

かっこよすぎ!尊敬する!

こんな人を支えながら生きた島津義弘の家臣たちは幸せだったんだろうなって思います。

殉死しちゃう気持ちもわかるような。。。

 

ちなみに、2014年に、大河ドラマで島津義弘をやる予定だったのですが、黒田官兵衛に変更になりました。

理由は、朝鮮出兵が韓国からクレームが入った?入る?から、らしい。

確かに島津義弘を語る上では、朝鮮出兵は大事なシーンですからね。

カットするわけにもいかないから放送自体を止めたんでしょうね。。。残念すぎる。。。

いつか大河ドラマでやってほしいな。

絶対に面白いと思う!!

華々しい戦シーンもあり、人間ドラマもある素晴らしいドラマになりそうな気がするなー。

観たいシーンがすごいたくさんある!!

いつか主役の島津義弘が見れますように💛

 

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