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猛将福島正則は賤ケ岳・関ケ原の戦いで大活躍するけど・・・天然キャラなのか?

こんにちは★

よよちち🐨です★

 

戦国時代の武将は、いろいろな性格の人物がいてホント面白いです★

今回紹介する「福島正則」は、いろいろな顔を持つ面白い人物です。

たまに困ったちゃんなところもあるのですが、周りの人から慕われる人物でした。

ということで、今回は、福島正則の生涯と、面白エピソード のお話★

 

福島正則の生涯をサクッと

■生まれ

福島正則は、尾張で生まれました。

父親は、福島正信という人物と言われていますが、だいぶ曖昧です。

一応羽柴秀吉に仕える武士ではあったようですが、そんなに身分が高くはなかったようです。

父親の影響もあって、小さいころから秀吉に仕えるようになります。

 

■賤ケ岳の戦い

正則は、青年期には、いろいろな戦に参加して武功を挙げていて、秀吉からのお給料もUPしています。

正則をスターにした戦は、「賤ケ岳の戦い」です。

この戦は、本能寺の変で織田信長が死んだ後の織田家のお家騒動です。

織田家の中で力を持っていた柴田勝家と、羽柴秀吉との後継者争いが起こりました。

正則はもちろん秀吉の味方につきました。

この戦は秀吉にとって天下統一に向けての、大事な大事な戦でした。

秀吉は戦でも外交面でも頭がキレッキレで、先のことがどんどん読めちゃうタイプの人物。

常にこうすればこうなる、と戦略を立てているような人間です。

この戦いで活躍した七人を「賤ケ岳の七本槍」と呼びますが、当時は無名の武士たちをスターのようにして、戦を盛り上げるのです。

「劇場型政治」というのでしょうかね。

こうして、戦は大成功して、見事秀吉軍の勝利となりました。

この七本槍のメンバー当人たちは、あんまり乗り気ではなく(笑)有名になりたくないんだけど。。。って感じだったらしいですが。

徳川家康、上杉景勝といった大物武将たちが秀吉軍の勝利をお祝いすることになって、秀吉の天下統一の土台ができあがるのでした。

正則は、この戦でスターになり、秀吉の天下統一への道を盛り上げていくきっかけとなった人物の一人なのです★

■石田三成が大嫌い

秀吉の右腕のようになって、豊臣政権を支えていたのが、石田三成。

頭の回転が速く豊臣家の頭脳として政治を動かしていました。

三成は、戦場の現場で戦う、というよりは、作戦を練ったり、お金の計算をしたりして、戦を支えました。三成はいろいろな手配したりとか、大忙しだったと思います。

でも、実際、戦場の現場で戦っている人からすると、「こっちは過酷な現場で命かけて戦ってるんだ!」「室内でぬくぬくしやがって!」という不満は少なからず出てきてしまうものですよね。

(そういうことをわかってあげられる三成だったら歴史が変わっていただろうなー🐨)

現場で戦っている武将たちが三成嫌いになった決定的な戦は、「朝鮮出兵」です。

武闘派だった正則ももちろん参加しています。

この「朝鮮出兵」は、本当に意味のないもの、むしろ損害だらけの戦となりました。

三成は、朝鮮での戦いの様子を逐一秀吉に報告していました。

(ま、そういう仕事だからね)

ただ、これが、悪口に近いような報告を逐一していたらしい。

簡単に言うと「正則、サボってたらしいですよ」とか。

それで、もともとあった壁がさらに厚くなっていきました。

「朝鮮出兵」は、戦死の原因が、凍死、餓死という人も多かったという、とても過酷な現場でした。

それで、三成のその発言に実際に現場で戦っていた武将たちは怒り始めたのです。

しかも、帰国してきてからも、褒美もなければ労いもなし。。。

こうして三成はどんどん嫌われ者になっていくのでした。。。

三成嫌いな武将は、正則のほかにもたくさんいました。加藤清正とかね。

🐨正則のマブダチ清正のお話はこちら↓

虎退治だけじゃない!加藤清正の意外な能力やエピソードなどをサクッと解説★

みんなで、三成暗殺計画を立てるくらい。

それで、三成は、実質的に、政治活動から引退していくのですね。

 

■関ケ原の戦い!徳川家VS豊臣家

こういった流れから、豊臣家の恩義はあるけれど、三成の味方はしたくない!

それで、徳川家側(東軍)につくことになった福島正則軍。

(ちなみに加藤清正も同じ理由)

でも、正則は、豊臣家への思いは強くて「豊臣家の将来のために家康に付く」と発言していました。

どうしてそうなるの??と結果を知っていると突っ込みたくなるけど🐨(笑)

 

関ケ原の戦いでは、正則大活躍でした!!

戦いが始まる少し前のこと。

家康が軍議を開き、改めて大名達に問いました。

「本当に三成を敵にまわして、東軍に味方して戦うの?」

この問いにいち早く答えを出したのは、豊臣家に恩義がありまくりの正則でした。

「戦う!!」

この正則の行為によって、他の大名達も決意が固まり、全体の士気が上がったそうです。

戦場の現場では、福島正則軍は、先陣をきって宇喜多軍と、激戦を繰り広げました!!

その後、あの九州の鬼!島津義弘軍に遭遇します。

孤立状態になっている島津軍を包囲して逃げる島津軍を追撃しました。

この「島津の退き口」はとっても有名です🐨↓

島津義弘の生き様がかっこよすぎる!島津四兄弟や得意な戦法も解説★

(関ケ原の戦いは面白いエピソードやドラマがたくさんです✨)

正則は、関ケ原の戦いの始まる前から最後まで、東軍に貢献して勝利に導いた武将の一人となり、家康から感謝されて最高級の評価を与えられる結果を残しました。

戦後は、20万石の領地を与えられて、広島城の城主となりました。

(広島城は、西軍の毛利家が持っていた)

 

■徳川幕府に嫌われていた?

広島の大名となった正則ですが、徳川家とは、あまりうまくいっていませんでした。

正則は、関ケ原の戦いで、石田三成が嫌いで、徳川家側についたようなものなので、豊臣家への思いはありました。

関ケ原の戦いでは、「豊臣家の将来のために家康に付く」とか言っちゃってたし。

それが、徳川家は気に入らない。いつか謀反を起こすのではないか、と。

 

徳川家に唯一逆らっていた大阪の豊臣家。

家康の最後の敵を倒すための「大阪の陣」徳川家VS豊臣家の戦いが始まりました。

この時家康は、正則が、豊臣家の味方をするのではないか?江戸城に留守番させます。

結果は、徳川家が勝利して、豊臣家は滅亡。

徳川家が天下を取ることになりました。

正則は、大阪の陣の冬の陣、夏の陣も、豊臣家の味方をすることはなかったけれど、正則の人生も豊臣家と同じように弱体していきます。。。

 

■悲しい最期

広島にいた正則は、「広島城を無断で修復した」と、徳川幕府から、怒られてしまいました。

「武家諸法度」(←教科書で出てきてテストにも出たよね)に違反するということでした。

しかし、正則は「無断」ではなかったし(申し出しても無視されていた)、修復は必要なことでした。

要は、徳川家からの嫌がらせのようなものかと。

もともと、信用がなかった正則に、いちゃもんをつけたかったのかもね。

最終的には、信濃国川中島高井郡・越後国魚沼郡の地にわずか4万5千石をもらって、家督を譲った後は、出家して、余生を過ごし、64才で亡くなりました。

関ケ原の戦いで、あんなに活躍して、徳川家に貢献したことは確かだったのに、ちょっと悲しい最期を迎えることになりました。

豊臣家が滅亡した時に、もう正則の運命も決まっちゃっていたのかな。

正則のことが好きになっちゃうエピソード

■笑っちゃうエピソード

  • 機嫌が悪い時は要注意

正則は、起伏が激しい性格でした。喜怒哀楽がはっきりしている性格。

ある日のこと。ご機嫌ななめの正則。。。

茶坊主(武家の中で、お茶出しなどする職種)が、正則に

「お茶をどうぞ」と出したら、急にキレだし、その茶坊主は牢屋行きに。。。

そして、牢屋の看守に「ごはんを与えるでないぞ!」と言って1か月幽閉。

かわいそうな茶坊主。。。

正則にばれないようにこっそりごはんをあげる家臣がいたのでなんとか生き延びていたけれど。。。

少し経ったある日、牢屋に行った正則は、その茶坊主を見て

「こんなところで何してるの??」と。。。

自分が牢屋行きにしたのに、そのことを忘れていたらしい。。。かわいそすぎる茶坊主。。。

正則は謝りました。

この茶坊主は、正則を許してそのまま正則に仕えたらしい。

ごはんをこっそり与えてた家臣に、「友情は素晴らしい!!」と感動していたとか。。。

(えーー??こういう人めんどくさい!🐨)

ピュアというか、なんか子供みたいな性格ですね。。。

 

しかも、こういったことが1回だけではないらしいです。。。(笑)

 

  • お酒が大好きで失敗した話

正則はお酒が大好きでした。

お酒の失敗はいろいろありますが、シャレにならんだろ・・・というエピソードを1つ紹介します。

大酒飲み同志が揃うとろくなことないね(笑)

 

母里太兵衛(もりたへえ)という武士が、正則のところへ、使者として訪ねてきました。

お酒が大好きな正則はその時はもうお酒に酔っている状態でした。

母里太兵衛もお酒が大好きですが、主君から禁酒するように言われていました。

正則に勧められても絶対に飲んじゃダメ!と言われていましたが、

正則は、しつこくお酒を勧めます。

「このでっかい杯のお酒全部飲めたら好きな物なんでもあげるよ!」

「いや、主君から禁止されてますので、飲めません」

「このヘタレが!!」

「・・・イラっ!!」

そんなやり取りをしていましたが、頭にきた母里太兵衛は、1杯どころか、3杯飲みほしたのです。

「飲めたらなんでもくれるんですよね?でしたら日本号を下さい♪」

正則「ええええ!それはちょっと。。。限度ってものがあるでしょ・・・」

「武士に二言はない、ですよね?まさか福島正則のような人間でも嘘をつくのですか?」

正則「う。。。分かった。。。」

この正則が手放すことになった「日本号」というのは、

もともと天皇が所有していた槍で、天皇から織田信長、豊臣秀吉へと渡った後に福島正則が受け継いだ超貴重なお宝なのです。

ちょっとお酒の席の悪ふざけでは収まらない、シャレにならない超貴重なものを手放すことになってしまった正則。。。(笑)

母里太兵衛は、「日本号」をゲットしてルンルンで帰っていきましたとさ🌟

 

■かっこいいエピソード

  • 可児才蔵

槍の使い手で、めちゃくちゃ強い可児才蔵という武士がいました。

武技に関しては、申し分ない才蔵ですが、性格にちょっと難あり(笑)

よく言えば物怖じしない性格、悪く言えば、気に入らないことがあるとすぐに口に出しちゃって、主君を怒らせちゃうライプ。

そして、今でいう入社と退職を繰り返す転職王です。なかなか、腰を据えて長く働くことができない才蔵。

そんな才蔵が信頼して、命を懸けて長――く働くことができた人物が、この福島正則でした。

才蔵は、プライドも高いし、ひねくれもの。。。

雇う側の上司の器が大きくなければ、一緒に働くことが出来ません。

正則も才蔵も相当な槍の名手。

そういうことでも気が合ったのかもしれないですが、正則が暴れん坊の才蔵を上手に扱って、才蔵にも慕われていたのは、人格的にも魅力があった証拠かと思います。

🐨二人のエピソードの詳しいお話↓🐨

笹の可児才蔵の最期まで自分を貫き通した人生と笹の葉のエピソードが面白い!

部下からの人気がとっても高い武将でした。

 

  • たった一人で親友に会いに行く

正則には、堀尾忠氏の家臣で松田左近という、仲の良い飲み友達がいました。

梶尾忠氏一行が現れたときに、松田左近の姿が見当たりません。

話を聞くと、左近は体調を崩して大阪で休んでいるということを知った正則は、

「心配だから会いに行くの―――!!」と一人で馬に乗って会いに行く正則。。。

戦国時代中にお殿様が共を連れないで、外に出るのとか、絶対だめな時代です。超危ない💦

正則は、ピュアでその時の感情のままに動いちゃうところがある人で、そのまま会いに行きました。

そして、無事に左近のところに着きました。

左近は、超ーーーびっくり!&嬉しくて、家臣にお酒を持ってこい!と命令しました。

しかし、正則は、「ダメ!体に良くないよ!」と大好きなお酒を断りました。

でもお酒が大好きなお二人さんは1杯だけね。と仲良くお酒を飲んだそうです。

正則、かわいいですよね。

友達を大事に思う優しい正則でした💛

 

おわりに

福島正則という人物は、子供みたいな一面がありました。

自分の心に正直で、ピュアなのでしょうね。

だいぶめんどくさい性格だけど(笑)

だから、反感をかっちゃうことも。。。

上に立つ人間ですから、ピュアだけじゃやっていけないので、政治に向いてない、とか言われちゃうのも、仕方無し、な感じもする。

🐨確かに、もっとうまくやっていれば、領地を減らされることもなく、そのまま広島城の城主でいられたかもしれないのにね。

気性が激しくて、振り回された家臣もたくさんいるけれど、なんだかんだで、家臣たちは正則のことが好きだったんだろうな、と思います★

 

武術や、戦に関しては、得意の槍を持って戦場を駆け巡り、武功をあげました!

関ケ原の戦いの前までは豊臣家に、関ケ原の戦いの時は、徳川家に大きく貢献しました。

しかし、正直すぎる正則は、徳川家とうまくやっていけなかった。

豊臣家と運命共同体だったのかな。。。

 

🐨関ケ原の戦いにまつわるお話です↓マジで感動するよ~

yurizo